小さい頃から、自分の願いや要求が嘲笑されたり、無視されたりすることなく、まともに対応されて育った人、つまり母親から愛されて育った人は、自然と強さを身につけている。しかしそうてない人、愛されなかった人ほ、その強さを自ら戦いとっていがなければならないのである。
そのために必要なことが自己実現している人と一緒になるということである。学生時代が終ると本当の友人はできない、などという言葉を信じてはいけない。社会人になってからだって親密な友人はできる。
親が与えてくれなかったものを、自己実現した人は与えてくれる。人間の心の成長に欠くことのできない愛は、自己実現した人によってしかもたらされない。
しかし多くの愛されなかった人は、神経症タイプの人間から神経症タイプの人間へとわたりあるいてしまう。そして、「人にとりいろうとする動機」に支配されて奴隷のように生きたり、或いは他人の願いを踏みにじる支配的な人間として生きてしまう。
では自己実現型人間と、神経症型人間とをどこで見分けたらよいか。
自己実現している人は、まず自分一人でいる時間を楽しんでいる。一人でいる時間が充実しているか充実していないか、ということがこの二つのタイプを見分けるポイントであろう。
どこで見たか忘れたが街の看板に、一人で生きられる人が二人で生きられる、という文句があった。何か女性ものの宣伝をしていたように思う。たしかにこのとおりである。一人で生きられる人が、二人で生きられるのである。
人間は他人にウソをついても破滅しないが、自分にウソをついたら破滅する。そして見捨てられる不安から人は自分にウソをつく。実際はそんな人間でないのに、そんな人間と思い込もうとする。
自分が本当は何を望んでいるのか、ということについてウソをつく人は破滅する。自己実現している人は、その点についてウソをつかない。
だからこそ自己実現して魅力的な人と、規範意識過剰で生気のない人と違うのである。
よく悪の魅力、ということを言う。私は悪そのものが魅力あるとは思わない。魅力のある人というのは善悪をこえて自分の望むものに正直なのである。それだけ根源的に生に近いということであろう。
悪が魅力あるわけではなく、自然の姿が魅力あるということではなかろうか。そして自然の姿と規範とは必ずしも一致しない。
魅力のある人というのは自由放奔に生きている人なのである。規範意識は肥大化していない。それだけに時に悪いこともする。しかし同時に、規範意識の肥大化した人などには考えられないような善いこともする。
寛大に深く人を愛するし、徹底的に敵とは戦う。彼らは他人に認めてもらうために規範に従っているのではなく、自ら望むことが規範に一致しているがら規範どおりに行動しているだけである。
だからこそ彼らのもっている人間関係は本物なのである。
人間は安心感がなければ甘えることはできない。見捨てられる不安がある限り人は甘えることはできない。俗にいう手のががらない子、よくお手伝いをするよい子はいつも見捨てられる不安があったのである。あるいは自分を保護してくれている人のど機嫌をいつも恐れていたのである。遊んでいる時も、お手伝いをしている時も、食事をしている時も。
甘えることのできなかった子は、そのままき真面目な大人になっていくことが多い。き真面目にしている限り、局囲の好意が期待できるからである。き真面目な大人は、甘えたくても甘えを表現できないで、いつも他人に対して気がねしていることが多い。
それは今述ぺた如く、き真面目な大人には安心感がないがらである。彼らは対人関係において安心感がない。依存心がつよいがら周囲の人の好意を必要とする。しかし自分の甘えを表現したら、その好意を失うと思っている。だがら甘えを表現できない。
この人は自分を見捨てることがない、という安心感を持った時、人は甘えを表現する。だが、甘えることはみっともないことと、き真面目な人は思っている。そして栢手に見捨てられたくなければないほど、その甘えの表現をさしひかえる。