私は挫折そのものが人間を深くするとは思わない。よく若い頃は挫折したほうがよいと言う人がいる。私はこの意見には賛成できない。
ただ、挫折して、苦しみ悩みつつ、怒りつつやがてそれを受容し、そして気持を整理して、遂に新しい情熱の対象をみつけていくということで人間が深まるというのには賛成である。
このようなプロセスを経ることによって人間は深まる。しかし世の中には挫折から再生へのプロセスをきちんと経ることのできない人がいる。
神経症の人、執着性格の人、うつ病の人、ひねくれてしまった人等々である。
対象喪失を最終的に素直に受容できず、歪んだ解決でそれをのりきろうとする人がいる。いろいろと言い訳する人である。
夢がかなえられなかった時、すっぱいブドウの言い訳をする人がいる。そのような人は肉体的には年をとっていくが、情緒の成熟は年齢についていかない。
人間の成長は対象喪失から再生へのサイクルをきちんとくり返すなかでなしとげられるものである。
出世の夢が破れた時、心の底で出世にあこがれながら「出世なんてくだらない」という人がいる。事業に失敗した時、成功にあこがれながら「あんな汚いことをやって成功したくない」という人がいる。恋人にふられた時、心の底であこがれ求めながら「あんな女と別れられてせいせいした」という人がいる。
これらの人は対象喪失から再生へのサイクルを拒否してしまった人である。人間としての成長の機会を拒否してしまった人である。
自分に自信のない人は、どうしても他人にとりいってしまう。とりいってうまくいかないと、今度は強烈に反発する。
しかもとりいっていく相手というのが、まともな人間でないことが多い。たとえば他人をなめる人間、他人を嘲笑するような人間、そういった人間にとりいっていく。
おそらくそのように他人を嘲笑するような人間にとりいることで、他人への軽蔑を共有し、そのことで神経症的自尊心をたかめようとするのであろう。
自分に自信のない人は、他人をありのままに見ることができない。欠点のある人間に暖かい愛情の眼をそそぐことができない。すぐに軽蔑する。軽蔑することで傷ついた神経症的な自尊心をいやそうとする。
また、格好をつけているような人間、一見偉そうに見える人間にとりいる。それは自分に自信がないと、どうしても他人が実際以上に偉く見えてしまうからである。
このように自信のない人間は他人を過小評価したり、過大評価したりする。
また自信のない人間は自分の属している集団に誇りをもっていないこどが多い。つまり自分の属する集団の価値観や行動様式に準拠して行動しようとしていない。
そこでその集団を軽蔑しているような人間にとりいったりすろ。自分に自信のない人間は自分を軽蔑し、同時に自分の仲間を軽蔑している。そこで自分の仲間を軽蔑している人間に迎合していきがちなのである。
神経症的な人間関係のなかで生きてきた者のなかには、小さい頃から「ほめられる」ことの多かった人がいるかも知れない。何が立派なことをやってほめられる。小学校の時成績がよくて「可愛がられる」、そんなことはあったかも知れない。
しかしそれらのことはみな報酬としての「愛」である。小さい頃お使いにいってきたがら頭をなでられた。何か親の気にいることをやったから「やさしく」された。そうして大人になり、また周囲に気にいられるようなことをしてほめられる。
だがこれらの人は、どんなにやさしくされ、頭をなでられ、抱かれても、親密さということを知らない。親密さというのは、報酬としての愛、報酬としてのやさしさではない。
何かがうまくいかなくても、それでもやさしくしてもらえる、というところに親密さは生まれる。だからこそ自然で正常な人間関係のなかで成長してこられた人は、失敗したらどうしようという不安に支配されることがないのである。だからこそものごとに挑戦的になれるのである。
それに反して神経症的人間関係のながで生きてきた者は、報酬としての愛、報酬としてのやさしさしが知らないがら、失敗を回避しようと不安な緊張にさらされ、できれば自分が試される機会を避けようとするのである。
うまくいかなかった時でもやさしくしてもらえる暖かさを知っている者は、安心してものごとに挑戦し、自分のなかに隠れている力を引き出すことができる。