悩みというのは、いったん悩み出すと、悩む原因などもともとないのに、悩むことにはそれなりの理由があるような気がしてきます。自分が今悩んでいるのは当然のような気がしてきます。悩みの原因は悩みです。太っていることを悩んでいる人は、自分が太っていることを悩むのは当たり前だと思っています。しかし太っていることそれ自体は、悩みの直接の原因にはなりません。あなたが太っていることを悩みの原因に自らしただけです。何度でも言います。太っているという事実から悩んでいるのではありません。
[私は太っていることで悩むことをやめる]と決心することのほうが、ダイエットを決心することよりはるかに大切です。そしてそのほうがはるかに有意義な人生を送れます。英語で悩みとは worry といいます。この英語の「悩み」という言葉は、オルトンによると旧いサクソン語からきたそうです。そしてそれは、動物が他の動物に咽を噛みつかれて窒息するときのもがく声を真似ているということです。
太っていると悩んでいる人は、悩みに咽を噛みつかれたのです。ある種の動物は相手の咽に噛みついたら離しません。太っているという悩みは、あなたの咽に噛みついてあなたを窒息させようとしているのです。犬に噛みつかれることを恐れて用心するあなたが、なぜもっと恐ろしい悩みに咽を噛みつかれることを警戒しないのでしょうか。
悩んでいると、あなたの女らしさも、美しさも、魅力も、知性も、撥刺とした若さも、あふれるような元気も、優しさも、高貴さも皆なくなってしまいます。悩みはあなたの魅力のすべてを吸い尽くしてしまいます。狼があなたに食いついて血を吸い、噛み殺すように、悩みもあなたの咽元に食いつき、離さず、あなたの魅力を窒息させます。あなたは析角魅力ある女性なのに、太っていると悩むことで魅力を失うのです。
欲求不満な人間はいったん親しくなると、生身の相手の許容量をはるかにこえたものを求めはじめる。
人間が精神的に成長するためには、愛されることが必要である。肉体の成長には酸素が必要なように、情緒の成熟には愛が必要である。
孤立してしまう欲求不満な人は、その愛が十分でなかったのである。そこでついつい愛されることばかり求めてしまう。
どうしても利己主義になってしまう。与えることより与えられることを求めてしまう。相手を理解することより理解されることを求めてしまう。
しかしどこかで方向転換を思いきってしないと、必要な愛が得られない。
人間は愛されなかったがゆえに愛を必要とする。しかし愛を必要とするがゆえに人々から愛されなくなってしまう。
不幸な人は一生不幸でありつづける傾向にある、ということはこういうことである。
親に愛されて育った人は、ことさら他人から、注目や絶対の愛を求めない。要求がましくもないし、相手にできることしか相手に求めない。
従って、人々に愛される。そのような人と一緒にいると楽しい。
一般に健康な人間は対象喪失にどのような反応をするのだろうか。
事業に失敗するとか、失恋するとかという喪失がおきた時、きっとあきらめて次の瞬間には別の目標にむかっている、などという人はいない。
たいていの人はすぐには素直に受け入れられない。夢ではないかと思ったり、何かの間違いではないかと思ったりしよう。
失恋の場合であれば、「あの人は私の愛をためしているのではないか」と思ったり、「いつかきっと帰ってくる」と思ったりする。そのように対象喪失を否認する時期というのがあろう。
或いは自分を捨てていった恋人を恨んだりする。激しい憎しみにかられ怒り狂う時もあろう。
だが、そのような時期を経て、たいていの人は喪失を最終的に受け入れていく。やっぱりだめだったと断念する。
やがて、新しい情熱の対象を発見して生きていく。
これが心理的に健康な人の対象喪失にともなう悲哀のプロセスであろう。
「愛の解消も、生涯、人によく愛され、愛を確信している人間にとっては、それほど脅威とはならないものである」(マズロー、小口忠彦監訳、『人間性の心理学』産業能率大学出版部 185頁)
しかし、すべての人がこのようにして喪失から再生への道をうまく歩むわけではない。神経症の人などは、喪失から再生への道をうまく歩めないであろう。
世界は自分に奉仕すべきであるという世界観をもっている人は、喪失を最終的に受容することはできないのであろう。「あいつを許せない」という怒りが終わる時がない人もいよう。