体重に限らず、自分に対する高すぎる要求水準は、自分に対する失望の反映です。自分に対する失望をそのままにして、高すぎる期待を下げようとしても無理です。自分に対する失望が[もっと痩せなくては]という強迫観念となって表現されているのです。自分に方はないのではないでしょうか。
私の解釈では、心理的に成長し、自己実現している人は周囲から影響されにくいのです。自然の体重より太りすぎている人は食べることばかりでなく、生活全般にわたって地に足がついていないのです。ダイエットをする前に、もっと基本的な生きる態度そのものを反省する必要があるのではないでしょうか。
[人に見せるため]と[べき]には注意することです。この二つは自分を受け入れることの障害になります。あるいは逆に自分を受け入れられないから、この二つにこだわることになります。
太りすぎの女性は痩せさえすれば恋愛もうまくいくと錯覚して思いこんでいます。恋愛が思うようにいかないことを太っていることのせいにしていますが、決してそうではないのです。恋愛がうまくいかないのは太っているからではなくて、女として自信がないからです。女としての自信は親からの心理的離乳をすることが条件です。
先の本にも太りすぎの女性は理想的な体型になれば、男も、社会的地位も、お金も、幸せさえも得られると思っていると書いてあります。これはもちろん太りすぎの女性のまったくの間違いです。親から心理的に乳離れしなければどんなに痩せても恋愛はうまくいきませんし、その他の人間間係もうまくいきません。ましてや幸せと理想の体型とは何の関係もないのです。幸せと間係があるのはその女性の情緒的成熟です。
この著者は、いつも相手が期待する役割をしている人が、ノーという手段として太るというのです。他人から何か頼まれると断れない人がいます。嫌われるのが怖くてノーと言えません。しかし「私は太っているから、できない」という言い方ならできるのです。
人から好かれたい、愛されたいと願います。しかし好かれる自信がありません。そんなときに「太っているから」というのは都合のいい口実なのです。
人は不幸にともなう感情にしがみつきがちです。僻んだり妬んだりという感情に浸っている人は、その感情を利用して人に復警しているところがあります。僻んでいる人は、僻んだり妬んだりという感情に固執していれば、人は自分に対する態度を変えるのではないかと期待しているのです。
「どうせ私は太っているわよ」と僻んでいる人は、そうひねくれることで誰かに復響しているのです。だからなかなかその態度を変えようとしません。[私は太っている]と嘆さ悲しむことで生きることの責任や困難を逃れようとしているからです。そのことはすでに述べました。そのほかにこのような不快な感情に浸り続けるのは周囲に復警しているのです。
ひねくれたりすねたりすることで、人は相手の自分に対する態度を変えようとしています。ひねくれることや僻むこと自体が本人にとって価値があるのではなく、それを通して相手に対して不満を表明することがぴねくれている人にとって価値があるのです。それは英語でいう受け身的攻撃性です。
[私は太っている]と嘆き悲しむことで相手が自分に同情することを求めています。