男と男、男と女、女と女、どんなつきあいでも、深くかかわりあってはじめて、「え、こんなことで得意になってんの」とか「こんな自信のないこと考えてんの」とかいうことでビックリする。人間はどうしても、それまでの自分の経験をもとに相手の人間を想像する。相手はこんなふうに考えるだろう、相手はこんなことをこんなふうに感じるだろう、相手はこんなことを迷惑に思うだろう、相手はこんなことをしてほしくないと思っているだろう、相手にこんなことをすれば感謝されるだろう、こんなことができれば相手から尊敬されるだろう……そんなことを今までの経験から想像する。人間は今までの経験から、相手は自分にこんなことを望んでいるだろうと考えてしまう。また、相手はこんなことを自分に期待しているだろうと思う。自分のしてもらいたいことを相手にしてあげようという人生訓は、正しいようでときにまったく間違っている。自分が相手からこうしてもらいたいと思うと、どうしても相手もこうしてもらいたいと思っていると考えがちである。しかし、人間はお互いに驚くほど違う。
「……ふつうの人は百度もそこを平気で通りすぎてゆくのに、敏感な人は最初でもうそれにつまずいてしまう……」クレッチマー『新敏感関係妄想』百度もそこを平気で通りすぎてゆく人もいる。そこにつまずく石があるということさえ気がつかない人もいる。またはじめにそれにつまずいて、そのつまずきに一生支配されてしまう人もいる。となれば、人とつきあうとき、次のことは大切であろう。百度もそこを平気で通りすぎてゆく人と、敏感で最初にそれにつまずいてしまってバランスをくずしてしまう人に、同じことを期待しても無理である。われわれは自分の内面の不安や悩みにばかり気をとられて、相手がそこまで違うということを無視する。無視するというより気がつかない。同じことをしたからといって、同じような好意が得られるわけではない。しかし、小さい頃ある行動で他人から好意を得られると、大人になっても引きつづきそのような行動をとりがちである。他人を理解するのはたいへんである、と先に書いた。その理由のひとつは、他人が自分をどう見ているかに気をとられて、他人の内面そのものを見ようとはしないからである。われわれが防衛的になっていればいるほど、他人の違いは見えてこない。他人から悪く思われまいとしていればいるほど、他人の違いは見えてこない。他人から悪く思われやしないかと恐れているばかりで、その相手がどういう人間であるかということに目がいかないからである。
人間は自分が気がついていない自分によって動かされている。だから心の病の解決はむずかしいのである。だが、自分が理由もなく不安だとか、どうしてだかわからないが不愉快だというときには、何か自分が気がついていないものが自分の心の底にある、と思うことが正しいであろう。その、気がつかないで心の底にあるもののうちのひとつとして大切なものが、この自分に対する頼りなさ、弱々しさなのである。気がついていないところで心が不安なのである。不安で何かにしがみつきたいのである。そして親にしがみつく、夫にしがみつく、妻にしがみつく、先輩にしがみつく、友だちにしがみつく、恋人にしがみつく、ある特定の思想にしがみつく、集団のリーダーにしがみつく、先生にしがみつく。しかし、“しがみつく”とは本人は思っていない。“しがみつく”というのは無意識の部分での感じかたである。この“しがみつく”ことは意識のうえでは合理化される。意識のうえでは“立派な人”だから“すぐれた思想”だからとなってしまう。では、ほんとうに心の底から素直になって、その人の言うことをきけるか、その人の言うことに素直に従えるかとなると、どうもそうはいかないのではないか。素直になれないのは、服従によって心のなかに生みだされている敵意と反抗のためなのである。恋人同士がお互いに素直になれない、などというときも同じことである。お互い相手に心の無意識の部分でしがみついているからである。強い人は素直になれる。