ところで、人生でもっとも大切な能力は何であろうか。それはもちろん、各人の人生観、世界観によって異なる。私は人間にとって「人を愛する能力」と「楽しむ能力」は、きわめて重要な能力であると考えている。例えば、鬱病者に欠けているのは「楽しむ能力」である。彼らは食べることも、歌うことも、遊ぶことも、話すことも、運動することも何もかも、つまり生きることを楽しめない。よく鬱病者に「趣味をもちなさい」ということが、新聞や雑誌や講演会などですすめられる。しかし彼らにとって、趣味さえもがもつべきものとなり、やはり行なうことがつらいものになってしまう。それは彼らの「楽しむ能力」が破壊されているからである。したがって「趣味をもちなさい」とすすめても、あまり効果を期待できない。大切なのは、彼らが生き方そのものを変えていくことなのである。それでは、この「楽しむ能力」の障害となるものは何であろうか。これについて私はまだどこでも読んだことがない。それはまさにこの本のテーマの一つである、現実の自分を無視して「理想の自分」を実現しようと努力すること、そのことなのである。
一緒にいて楽しい人とは、その人といる時に自由を感じる人である。つまり、自分の弱点をさらけ出しても軽蔑されないという安心感のある人である。一緒にいて楽しい人とは、自分の弱点を出してもその人とのつき合いが終わらないという安心感のある人である。社会的に望ましくない感情でも、その人といる時には許されるという人である。つまり、その人といると防衛的にならなくてもいいという人である。そんな人といると楽しい。しかし、その神経症的自尊心が強すぎる美人は、なぜ男性が自分から離れて自分より美人でない女性に惹かれていくのかが理解できない。女性の美しさは、男性にとっては単なる刺激でしかない。それにはやがて飽きてくる。自分の弱点を出しても見捨てられないという安心感のある人とは、はじめから燃えるような恋が芽生えるわけではない。それは少しずつ好きになっていくのである。少しずつ、しかし確実に相手を好きになっていく。先の神経症的自尊心が強すぎる美しい女性と恋愛する男性達は、皆気楽につき合える女性の友達が欲しくなった。そして気楽につき合えるような女性とつき合いだす。しかし、それが恋愛に発展していくとは考えていない。まさか自分の恋愛感情がそちらの女性に傾いていくとは考えていない。しかし、次第にそちらに傾いていく。男性は、そんな自分に驚く。このように自分の弱点をさらけ出しても許されるつき合いのなかで、徐々に信頼関係や恋愛感情は強まっていく。
神経症的自尊心の強い人は、「楽しい」時に「わあ、楽しい」と体じゅうで素直に表現しない。「わあ、楽しい」といってしまったら、それが自分の弱みにならないかと用心する。相手の「おかげ」で自分は幸せであるということを、神経症的自尊心の強い人は好まない。むしろ、いつも「自分の不快な感情はあなたの責任である」と、暗黙のうちに相手に心理的な負担を負わせようとする。それによって関係が壊れないようにする。したがって、いつも自分のそのままの感情を表現することに身構える。だから楽しくない。人は心理的に病んでいないかぎり、最後には一緒にいて楽しい人のところにいく。素直さは最後には肉体的美しさに勝つ。美人とかハンサムとかということは、他人よりも優越することで自分の悩みを解決しようとしている人に対してのみ大変な意味をもつ。そうでない人にとっては、たいして価値のあるものではない。「それはいいですねえ」という程度のものである。美人でないより美人であるほうがいいという程度のものである。私は時々、「恋愛をして泥沼に陥らないような人を選ぶ基準がありますか」と聞かれる。抽象的に答えれば、心理的に健康な人である。具体的にわかる基準はないかもしれないが、あるとすれば「ありがとう」と素直にいえる人であると答えている。