栄光は不安から人を救わないが、愛は不安から人を救う。栄光は人に安心を与えないが、愛は人に安心を与える。神経症になってしまった人、神経症的自尊心を持ちつづけて、ただぶらぶらしている人は、親から真の愛が与えられなかったので、その代わりに栄光を求めた。しかし。こだわるべきは、栄光ではなく、愛だったのである。与えられなかった愛にこだわるべきだった。得られなかった愛を得ようと、そのことにこだわるべきだった。親だけが愛を与えるわけではない。神経症の人は、本気で愛を求めてはいない。本気で愛を求めると、その人に何が起きるか。自分を恥じる気持ちが消える方向に向く。自分を恥じる気持ちは、そう簡単に消えるものではない。しつこく残る。これでもかこれでもかと、その人にしつこくつきまとう。しかし本気で愛を求めれば、とにかく自分を恥じる気持ちから離れる方向に向く。先にも書いたとおり、神経症の人は、自分を恥じる気持ちがありながら、それを隠す。私も若い頃神経症的で、自分を恥じていた。そして自分を恥じている気持ちを、自分にも人にも必死で隠そうとした。自分は恥ずべき存在であるという劣等意識から逃れるために、人は栄光をついつい求めてしまう。そして自分は恥ずべき存在であるという気持ちがあまりにも苦しいため、栄光にしがみつく。栄光にしがみつくといっても、実際に栄光が与えられるわけではない。想像のなかの自己栄光化である。想像のなかで自己像にしがみつくということである。
好意の押し売りとは、よくいったものである。断わると悪い気がするので好意を受けるが、内心は迷惑である。人間関係がうまくいかないのは、たいてい他人への理解力が欠如しているからである。自分がこんなにしているのに、人間関係がうまくいかないと不満な人は、一度自分は自己中心的なのではないかと反省してみることである。だいぶ前のことになるが、ある恋愛論を読んでいたとき、女性は自分の肉体を与えたときに世界を与えたような気持ちになるが、男性は玩具をもらったような気持ちになる、という主旨の格言が引用されていた。猫に小判という格言もある。また本人は小判のつもりでも、相手はまったく小判とは思っていないときもある。自分の求めているものと、相手の求めているものとは違う。このことが自己中心的な人にはわからないので、何をしても相手から押しつけがましいと受け取られるのである。自己中心的な人が何か知ると、大変である。自分の知っていることが、知るに値する唯一のことと思うからである。かつて過激派といわれた人々が、相手に向かってよくいったことは、「こんなことも知らないのか、それでもおまえは……」ということである。自己中心的な人は、ひとりよがりの自己満足であるから、社会的に生産的な仕事ができないのである。フロムがナルシシストについて次のようにいっている。なんでもないことをいうのに、大層なことをいうようなふりをする。当人は驚くほど興味深い話をしているつもりである。自分が話していることばかりに関心がいき、相手がどのような気持ちで話しているかに関心がいかない。
相手にとっての自分の位置がわかれば、、それほど人間関係のいざこざもなくなるのではないだろうか。いろいろ悩む人のなかには、このことがわかっていない人が多い。相手にとって自分は単なる知り合いである。それなのに、相手が自分を親友のように扱わないといって怒る人がいる。知り合いには知り合いのつきあいがある。自分が困ったとき、単なる知り合いに、重要な会社の会議を抜けだして相談にのってくれといっても無理である。しかし親友であるなら、場合によっては、仕事をやりくりして、上司や同僚に頼んで、これこれの事情でこの会議は欠席させてくれということもあるだろう。それは相手が、自分の親友であるからである。自分の子供が病気だとなれば、会社に迷惑もかけるであろう。しかし見知らぬ人が病気だというので、会社を休ませてくれということにはならない。人間関係で不満な人はたいてい、相手にとっての自分の位置がわからないでいるのである。恋人でもない異性の知人に、ものすごい要求をする。忙しいなかを時間をつくってくれという。そして相手が断わると怒りだす。つまり、相手の優先順位というものがわからない。相手には仕事もあれば、昔からの友人もいるし、奥さんも子供もいる。ものすごい忙しさで子供と遊ぶ時間がとれないでいたビジネスマンが、一年してやっと休日がとれた。そのとき子供と過ごす時間を、見知らぬ人が飛びこんできて相談があるといった。そして断わったら、あなたはそれでも隣人に対する愛情があるのかと責めたてる。