加藤諦三の言葉 第104回 [2003/01/29]

なぜあせるのか、どうすればあせりがなくなるか
もっと素直に生きてみないか (P.138)
(三笠書房)

 あせっている人はまた疲れている人である。ただ仕事に没頭して疲れたのではない。あせる人は仕事をする前に疲れたのである。仕事をして疲れた人、運動をして疲れた人、このような人はあせることはない。たとえば、水泳の選手が、どう泳げるか研究し、繰り返し繰り返し練習する。そうして疲れた選手はぐっすり眠れるのである。疲れてなにかあせって休養できないという人は、なにかをやったから疲れたのではない。基本的にはなにかをやる前に疲れたのであろう。なにかをやる前に感情が緊張して疲れたのである。激しい感情疲労はその人がじつはなにかをやっていないということをあらわしている。会社に行って一日仕事に没頭して疲れた人は、疲れたら休養をとれる。しかし会社に行ってなにもしないのに朝から疲れている人は、疲れても休養できない人である。いつもあせってばかりいる人である。



自然の流れに身をまかせることを覚える
もっと素直に生きてみないか (P.159-P.160)
(三笠書房)

 私は学生時代、山に登っていたが卒業してからヨットをはじめた。ヨットは風まかせなのである。どんなに頑張ったって風がなければ動かない。微風のときは、セールはパタパタと音をたてだす。大海原いっぱいに帆を張るなどというものではない。その頼りないパタパタという帆の音を聞きながら、ゆっくりと走るヨットの上で、ボサーッとしている以外にどうしようもない。やがてその微風もパタリとなくなる。帆はだらりとたれてしまって、もうパタパタともいわない。ヨットはとまる。次に風がでてくるまでどうにもならない。どんなに努力してもどうにもならない。疲れても眠れない。休養しても心はあせる。そわそわしながらも無気力になる。そこまで神経が疲れたら、風がとまったヨットのときと同じである。思うようにしようとしたところで思うようにならない。風がとまったヨットのときと同じである。思うようにしようしようとしたところで思うようにならない。風がなくなったとき、どんなに帆走させよとしても帆走しない。次の風がでてくるまで待つしかない。同じである。心安らかにしようと思ってもあせる。もっとゆっくり休養しようと思ってもどうしても気持ちがそわそわする。ヨットが思うように帆走しないように、自分だって思うようにならない。ヨットが自然の法則にさからえないように、自分も自然の法則にさからえない。



何に“こだわり”を持ったらよいか
「思いこみ」の心理 (P.21)
(三笠書房)

 私のところにも悩んで会いたいという人が来る。悩んでいる人で、私が忙しくて会えないということを納得した人はいない。会ってみるとわかることは、そういう人は、自分が特別に注目に値する人だと思っているのである。悩んで私のところに相談にくる人は、例外なしに、自分は特別の人間であると思いこんでいる。そしてまた例外なしに、そのようには思っていないと主張する。ある高校中退者の例である。 「……私がわざわざ教育委員会に出かけたのに教育委員会の人は……」と怒りを心頭に発している。何のことはない、教育委員会が彼を一高校中退者、一市民として扱ったのである。彼を特別の人として扱わなかった。彼の悩みを、他の人の悩みと違う特別なものとして扱わなかった、それが彼には許せないのである。普通に扱われたことを、軽く扱われたと感じたのである。


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