愛情に飢えている人がいる。見ていると不思議に心の冷たい人のところにすいよせられていく。心の冷たい人、つまり依存心が強かったり、抑圧が激しかったり、欲求不満だったり、いずれにしろ望ましい人ではない。寂しい人がいる。そしてその寂しさに苦しんでいる人の近くに愛する能力を持った心温かい人がいる。すると寂しくてたまらない人は、まことに不思議なことにこの心温かい人を避ける。私は何度か、この世にも不思議な人間の行動を見てきた。そして気がついたことは、寂しくてたまらない人は、心温かい人に会うことにストレスを感じているということである。愛情に飢えた寂しい人にとっては、依存心の強い人たちと一緒になって、他人を非難したり、不平を言ったりしていることが救いなのである。自分が自分を偽って生きてきた、自分が他人をだまして生きてきた人にとっては、自分や他人を大切に生きてきた人がストレスになるにちがいない。心の冷たい人と一緒にいれば、一緒になってウソをつくから自分のウソがばれない。しかし心の温かい人といると、自分で自分に隠しているものが明らかになってくるであろう。今まで欺瞞に満ちた人生を送ってきた者にとって、同じように欺瞞に満ちた人生を送ってきた人と一緒のほうが気がらくなのであろう。
たった一度の自分の人生をメチャメチャにし、あげくの果てに周囲の人からばかにされ、そのうえに不満を持たれる。こんな悲劇の人がこの世の中にはいる。あなた自身がこのような悲劇の人であるかどうかは、あなたの周囲の人間を見ればわかる。まず第一に、思いあがった人間が周囲に多いかどうかである。あなたの会社の仕事を軽んじたり、あなたの家族の心を無視したり、世の中を斜めから見て軽蔑したり、そんな人間が多かったら、あなたはこの種の悲劇の人間の可能性がある。第二に、周囲の人たちの人間関係である。あなた以外にどのような親しい人間をその人が持っているか、ということである。あなた以外につきあう人のいないような社会的に孤立した人間かどうか、ということである。社会的に孤立した人が多かったら、あなたはこの種の悲劇の人の可能性がある。第三に、あなたがどういう人間であるかをあなたに代わって決めようとしている人が周囲にどのくらいいるか、ということも大切である。われわれは、自分がどのような人間であるかを自分で決めてよい。自分は平凡な人生を生きたいのかどうか、自分は平凡な幸せをすて大事業に危険をおかして挑戦する人間であるのかどうか。それらは自分で決めることで他人の決めることではない。
会社において、なにか人間関係がうまくいかない、という人もいよう。どうしても納得がいかないことが多すぎる、おもしろくないことが多すぎる、腹がたってしようがない、予想したことが予想通りにはいかない、顔を合わすのも不愉快だ、あいつを見るだけでもムシャクシャする、口惜しくてしようがない。いろいろとありすぎるくらいある人もいよう。もしそれほど腹のたつことが多いとすれば、じつはその人は周囲の人間について錯覚していることが多いことなのである。たとえば、あの上司は自分をだれよりも信頼していると思っている。ライバルのあいつよりも部長は自分のほうをかっている、常務は自分を可愛がっている、課長が自分にあのような態度をとったのは、部長の手前しようがなかったのだ、部長はもともとあのような人間ではない、部長は実はじつはライバルのあいつのあつかましさに手をやいている、社内の人間関係についていろいろなことを考えているにちがいない。上司は自分をこう見ているにちがいない。しかし、じつを言えば、そこがまったく違っているのである。いまあなたは、部長はライバルのあいつよりも自分のことをかっていると思っているが、じつは部長はあなたよりライバルのほうを評価している。だから人間関係がギクシャクするのである。つまりあなたの言動の前提となっていることが間違っているのである。部長はじつはライバルのほうを評価しているのに、自分のほうを評価していると思って行動しているから、いろいろなところで、自分の思うように他人が動かなくて腹がたつのである。