積極的に人の中に入っていかれないという理由の中には、劣等感もあるのではなかろうか。恥をかきたくない、惨めな思いをしたくない、そこで誰とも接しないで、一人で超然としているふりをする。皆に関心がないような振舞いをするが、実は皆が何をするか人一倍関心がある。しかし関心があるということを示して、そのうえで仲間はずれにされたらもっと恥をかく。自分が確実にその仲間だと確信があれば、恥をかく可能性のあることにも興味を示せる。しかし自分が皆の仲間か仲間でないか不確かなときには、超然としているようなふりをするしかない。つまり心理的に不安名費とは、仲間の中での自分の立場を常に不安に感じる。いつも仲間から拒絶されるのではないかと恐れる。安全確実を確認しなければ、仲間に接していかない。自分も参加させてくれと、その仲間に飛びこんでいかれない。自分が確実に必要とされているということを確かめてから、そこに出かける。自分が呼ばれていないのにのこのこ出かけて行って恥をかくことを避けようとしているのである。先に述べたように、彼らは役割でしか自分を確認できない。そこにははっきりと自分の役割があるときにしか、そこに行かれない。
人見知りというのは、やはり人を信じられない人間が陥る心理ではなかろうか。人見知りする人は、おそらく心に葛藤がある。人見知りをするような人でも、ときに見知らぬ人に会ってみたい気もする。しかし他方で見知らぬ人に会うことを避けたいという気持ちも強い。知らない人が自分に好意を持つということが、なかなか信じられないのである。会うことが怖いのである。見知らぬ人と会うと安心していられない。別に、見知らぬ人が自分に危害を加えるとは思っていない。その点では犬に噛みつかれることを怖がるのとは違う。しかし心は相手におびえている。おびえるからすぐにお世辞を言ってしまう。お世辞を言うのは、相手を恐れているからである。そして相手を恐れてお世辞を言ったとたん、さらに相手が怖くなる。自分に危害を加えることはないと知りながら、相手におびえる。見知らぬ人と会うと、なんとなく不安になり、緊張してしまう。なんとなくすぐに取りいる。取りいってしまうことで相手を怖い存在にしてしまう。相手に好かれる存在に自分を変えなければと焦る。心の中では、こんなに緊張するのは馬鹿げているとよくわかっていながらも、不安になる自分をどうすることもできない。相手に好かれる存在に自分を変えるということは、実際の自分は人から愛されないという自己イメージがあるからである。
自信を持って生きられるようになるために大切なことは、自分の力で自分のほしいものを手に入れようとする気迫である。不安なときに従順になり、人に迎合して安心しようとする人がいる。従順になることによって自分を守ろうとする人は、他人の好意によって自分のほしいものを手に入れようとする。これらの人は他人に対して一見誠意があるように見えるが、実は他人を恐れているにすぎない。この従順なタイプに属する人は他人の保護を求め、他人の助けによって自分を守ろうとする。自分の力で自分を守ろうとしない。自分にできるだけのことを精一杯しようとするのではない。このように自分の望みを他人の好意や保護や助けによって手に入れようとしている限り、自分をいつも抑えなければならない。したがっていつになっても抑鬱的な気分を脱出することはできない。自分がほしいものは自分の努力で手に入れようとするなどということは、誰でもしていることのように思えるが、実はそうではない。自分の力に頼って生きていこうとしている人は、案外少ないのである。自分の力といっても、社会的能力や肉体的能力を言っているのではない。心理的能力である。