外化の間題を考えるときにやはり最も重大なのは、はじめに述べた理想の自我像である。
理想の自我像に執着するというといかにも向上心が強いように間こえるが決してそうではない。単に心理的成長に失敗しているということに過ぎない。つまり小さいころ自分の周囲にいた重要人物に自己同一化して以来、他の人から何も学べないでいるということである。
[理想の自我像]とは、小さいころ自分の周囲にいた神経症的重要人物の要求を心の中に取り込んでしまったということにすぎない。[理想の自我像]は権威主義的な父親への同一化によって生じる。
だから理想の自我像に執着する人は皆権威主義者である。理想の自我像に執着することの裏返しは、劣った人への蔑視である。心理的に成長して理想を求める人は、これ以後に書かれているような心理的特徴を示さない。つまりいらいらしたり、相手に迎合したり、体が悪くないのに頭痛に苦しんだりはしない。
とにかく理想の自我像を追い求めることは恐ろしい。心理的破滅に向かってつき進むことである。心理的に強いものは決して理想の自我像に固執などしない。
理想を求めることそのこと自体が悪いというのではない。その動機が間題であると言っているのである。自分に微笑めばほとんどのことは解決してしまう。
自分が実際の自分に怒っている。弱点のある自分を自分が許せない。どうしても理想の自分でありたい。もっともっと社会的に成功し、もっともっと皆から尊敬される自分でなければ気がすまない。自分が自分の弱点に耐えられない。
そんなときにその許しがたい自分の弱点に他人も怒りを感じるのではないかと恐れるのは当然であろう。だからその弱点を隠そうとするのである。
他人からの怒りが怖い。だから他人に理想の自分を演じている。対人恐怖症というのは自分恐怖症といってもいいかもしれない。自分が自分に対して恐れている。それは恐れるべきほど自分に自分が怒っているからである。他人がそれと同じほど怒れば怖くて仕方がない。
自分の弱点が相手を怒らせないかとびくびくしている人がいる。そこで他人にいつも迎合する。相手が自分の弱点を気にしているわけではなく、自分が自分で気にしているだげなのである。いつもいらいらしている人は自分が自分の弱点に怒っているのである。自分が実際の自分を許せない。相手が自分を許せないわけではない。
私の知っている優しく、暖かい女性が神経症者と結婚した。相手がいけなかった。ひどい神経症者である。自分にとって都合のいい「あるべき理想の妻像」を掲げて、妻にヒステリックに追った。神経症者がするあの非現実的な要求である。居丈高に物凄い勢いでその自己中心的で、しかも非現実的な要求をする。妻の箸の上げ下ろしで傷つき、騷ぎ立てる。神経症者というのは何にでも傷ついてしまう。
そこであっさりと自分には出来ませんと妻が言えば、離婚になっていたであろう。離婚をしたくなかった彼女は、必死で彼が要求する非現実的な「あるべき理想の妻像」を演じた。やがて彼女の内面はぼろぼろになった。彼女は自分を見失った。自分を見失えば優しさも暖かさも消える。
「あなたが天使に生まれついていないからといってあなたを咎めるような教えは、何であれ悪意のある出鱈目です」(シーベリー)。彼女はこの悪意のある出鱈目にしたがってしまったのである。
神経症者が断じて認めないのはシーベリーの次の言葉である。「天使など、あなたの隣人達の中にもいないことを覚えておいてください。私たちはみんな人間なのです」。神経症者は自分のエゴイズムの満足のために相手に天使であることを強く要求する。そして相手を滅ぼす。彼のエゴイズムとナルシシズムが冷たく憔悴した奥さんとなって返ってきたのである。