加藤諦三の言葉 第1回 [2000/09/01]

人生にはある程度の困難があった方がよい
「ねばり」と「もろさ」の心理学 (P.37)
(PHP研究所)

 よく「あいつはひよわ」だとか、「あいつは雑草のように強い」とかいう言い方をする。エリートコースを通って来たサラリーマンなどを表してよく「ひよわ」だという言い方をする。挫析に弱いのである。一度失敗するともう立ち直れない。
 エリートコースを通って来たサラリーマンは些細な失敗でやる気をなくす。十分に取り返せる失敗なのに「俺はもう駄目だ」と落ち込む。少しのハンディでもやる気をなくす。
 success onlyできた人は社内で少し出世のコースからはずれただけで物凄い心理的打撃を受ける。絶望する。少し自分が不利になるともうどうしていいか分からなくなる。ハンディを乗り越える気迫がない。
 人間というのは迎合しなければ生きていかれない様な厳しく不快な環境に育っても無気力になるし、かと言って困難のない甘やかざれた環境で生きても無気力になる。ある程度困難と戦っていた方が長生きもすると言う。依存性を誘発されるような環境に生きる老人は衰えも早いということである。何もかもしてくれる養老院は望ましくないという。
 私は先の文章でglosse overという言葉に魅かれた。ごまかして生きることがどれほど心理的に害になるかということである。「酸っぱい葡萄」や「甘いレモン」はその人をその場で表面的には救うかも知れないが、長い目で見ればその人を絶望的にしていくのである。



失敗と戦うことで幸せになれる
「ねばり」と「もろさ」の心理学 (P.43)
(PHP研究所)

 我々は成功ばかりで幸せになれるのではなく、失敗と戦うことで幸せになるのである。我々は次々に成功する人を羨ましく思う。自分の人生は何であのようにならないのだと羨ましく思う。自分の人生はどうしてこう不運なのだと思う。そうなると時に失敗のない人生を送っているような人を妬む。しかしこれは間違っている。
 自分は妬み深い性格だと思う人は、自分の人生の失敗を再評価することである。自分はこれだけの失敗にもかかわらずここまで生きてきた。それは大変なことである。これで幸せになれないはずはない。もしなれないとすればそれは不必要な競争意識を持ち、他人のことを間違って考えているからである。妬みや、絶望感や、無力感を処理するのに大切なのは人生の成功と失敗を正しく評価することである。
 自分は会社の本流から外れてしまった。それなのにあいつは常にエリートコースに乗っている。羨ましい。誰でもそう感じるであろう。しかしそのエリートコースに乗っている彼が、定年になって会社を辞めた時にどうなるかは別のことである。
 彼は会社の生え抜きだから会社での出世は早い。俺は途中入社で傍系だから、努力しても彼のように出世出来ないと僻んでいる人は多い。或いは俺のように有名大学を卒業していないから先は知れていると僻んでいる人もいる。しかしもしその様に彼はエリートコースを走っていても、彼は簡単に挫折するかも知れないし、もし挫折しないとすればそれは外側から見える彼と現実の彼とは違って、彼は人知れず人生の荒波にもまれているのである。



幸せであることと幸せに気付くことは別である
「ねばり」と「もろさ」の心理学 (P.46)
(PHP研究所)

 ぜいたくは、与えられたものに自分の力を使うことの幸せに替われるものではない。そして自分の力を使うことで人は自分に誇りを持つのである。彼も遊びにおいてさえ子供から困難を奪うのは親切ではないと言う。
 だからこそ社会的に成功している人が必ずしも自分に自信があるわけではなく、また社会的にあまり成功していない人が自分に誇りを持ち自信を持って生きているということが出て来るのである。
 だからこそ要領のいい人、ずるく立ち回る人が出世しても必ずしも自信があるわけではなく、また幸せではないのである。自分に自信のある人は外からどう見えても地道に努力をしているのである。要領のいい人、ずるく立ち回る人が出世してもそれほど羨ましく思うことはない。
 他人の成功に気をとられて自分の幸せに気がついていない人が多い。どうも幸せであることと幸せに気がつくということは別のようである。そして気がつくということは正しく理解することと関連しているように思う。



親に演技する“よい子”
「ねばり」と「もろさ」の心理学 (P.87)
(PHP研究所)

 大人になってから挫折するいわゆる「よい子」は、絶望感を心の底に宿しているのかも知れない。権威主義的で、支配的な親から逃げることが出来ず、生きることに失敗したのである。従順であることが唯一親の注目を獲得する手段ではあるが、それとても時に無視される。
 従順であることが時に親の自分に対する態度を変えることがある。しかしそれも必ずしもというのではない。自分を殺すことによってしか、不快な環境を逃れることが出来ないと知れば、やはり絶望するのではないだろうか。我執の親は子供にとって電撃と同じ様に不快な刺激である。
 自分を殺して親の御機嫌をとった時だけ、親の自分に対する態度を変えることが出来る。この様なことを学んでしまったらやはり絶望するであろう。欲求不満で、我執の親は子供にとって恐怖である。自分が言いたいことではなく、親が喜びそうなことを言う、自分がしたいことではなく、親が喜びそうなことをする。
 これは親に対する自分の反応は親を変えることは出来ないと学ぶのとほぼ同じことである。つまり自分を殺す時だけ、親を自分にとって好ましい存在に変えることが出来るということである。それ以外親はいつも不機嫌である。
 我執の親の不機嫌に接して生きることは、子供にとって犬がハンモックに紐で結び付けられて電撃を受けるのと同じ様に不快である。



心の底の絶望感が顔を通して表れる
「ねばり」と「もろさ」の心理学 (P.109)
(PHP研究所)

 人が暗い顔をするのは自分の価値を感じられない時ではなかろうか。人は自分の価値を感じることに失敗した時、ふと暗い顔をする。あるいは自分の中に力を感じることに失敗した時に、ふと暗い顔をする。
 自分の心の底にある絶望感がその人の顔を通して表れるのではなかろうか。自信のなさがその失敗を通して表れる。心の底の暗さがふと顔をのぞかせる。自分への失望感から眼を背けている人がいる。自分への失望感を抑圧している人である。
 その様な人は何とかして自分の価値を感じようと必死である。それにもかかわらずそのことに失敗する。その時人は自分の心の底にある絶望感と直面する。人知れず暗い顔をするのはその時である。自分の反応が何の効果もないことを知って絶望感を深めていく。「Responses don't matter」。これが絶望感、自分への失望感を深めていく。
 対人恐怖症の人が人前で理想的な人間を演じようとするのは、そうしなければ心の底の絶望感と直面しなければならないからである。それだけに必死で理想の自我像に固執する。しかし残念ながら「Responses donユt matter」で理想の自我を演じることに失敗する。そしてやはりふと暗い顔をする。
 必死で明るい人を演じる人も同じである。心の底が暗ければ暗いほど逆に明るく振舞うことでその暗さと直面することを避けようとする。その人が見せる「ふとした暗い顔」、それは必死の戦いに敗れたことを表現している。


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