心理的健康とは、自分の能力が大きかろうが小さかろうが、自分が自分であることを喜ぶことである。私自身若い頃神経症的なところがあって、自分の能力に満足していなかった。自分が自分の理想の人間ではないと認めることが出来なかった。どうしても実際の自分を受け入れることが出来なかった。能力には色々な種類があるという事が分からなかった。能力がないと言うことは「その能力」がないと言うことに過ぎない。私は若い頃それが理解できなかった。
しかし自分が自分であることを受け入れられるようになってみると、何で非現実的なほど高い期待を自分にかしていたのかと納得できないような気持ちになる。自分が自分であることを受け入れられるとは、人と心がふれあえるようになったという事である。実際の自分に触れるという事である。
私は神経症の頃心の底の底では自分がそんなに能力が無いと云うことは知っていた。しかしそのことをどうしても認めることが出来なかった。自分は自分であってはならなかった。自分はどうしても実際の自分より偉くなければならなかった、自分はどうしても実際の自分より能力がなければならなかった。
しかし自分が実際の自分を受け入れられるようになってみると、どうしてあんな感じ方をしていたのだろうと不思議になる。自分は自分なのだから自分の能力で行けるところまで行くのが当り前であり、それが嬉しいのも当たり前であるように感じ始める。
実際の自分を受け入れてくれる人がこの世の中にいるのもまた当り前に感じる。自分が自分を受け入れてみると現実の自分を受け入れてくれる人がこの世の中に沢山居ることが分かる。そしてその人達と楽しく人生を生きられるのも当り前に感じる。それは太陽が東から上り西に沈むのと同じくらい当り前なのである。
自分を受け入れられるようになってみると、自分を受け入れないのは太陽が東から昇ることを受け入れないのと同じくらい滑稽に感じる。つまり神経症型の人は実際の自分の能力を受け入れられないというよりこの世の現実を受け入れられないのである。
そして実際の自分を受け入れていない人を見ると欲張りであることが見えてくる。彼らはエネルギーとして石炭も、石油も、原子力発電も皆欲しいのである。「そんなに持っていても一度に使えないよ」と言っても、とにかく全部欲しいのである。「何のために欲しいの?」と聞いてもわからない。とにかく欲しいのである。
心理的に健康な人は一番欲しいものを知っていて、それ以外は諦めることが出来る人でもある。
実際の自分を受け入れていない人は一般的な価値と自分にとっての価値の違いがわからない。女性を見て「この私が」好きな女性というのがいると言うことが理解できない。一般的な美人が好きなのである。美しさが「この自分のところ」に漂ってくると言うことが理解できない。神経症型の人には、他人は美人とは思わないけれども、「この私には」美しさが漂ってくると言うことがない。