若い頃によくこんな酷いことをしていたものだと自分で自分のしていたことに呆れる。神経症者は本当に「自分は自分であるべきでないという」様に、とんでもないことを自分に要求しているのである。
自分の能力からして「これぐらい」がいいとこだなと、そのことを受け入れられないのである。実は「これぐらい」が凄いことなのだが、凄いこととは思わない。自分はもっと出来る「べき」だと思う。もっと出来るべきだと言ったとて、実際に出来ないのだからしかたない。
神経症とは、その「しかたない」事を自分に要求するのである。そこまで自分を虐めぬかなくてもいいだろうと思うが、そこまで自分を虐め抜くのである。
ではなぜ「これぐらい」と感じて、「こんなにも」と感じないのか。それは自分が、この今の自分を軽蔑しているからである。どんなに凄いことをしても、自分が、この今の自分を軽蔑している限り、「これぐらい」しか出来ないと感じ、不満になる。
神経症とは本当に恐ろしいことだと思う。自分が、この今の自分に満足できないと云う神経症は確かに生の悲劇である。自分が、この今の自分に満足できないように過剰な期待や、自分以外の人間であるべきだと要求した親と云うのは魂の殺人者である。こういう親から心理的離乳が出来なければ、いくら社会的に成功しても幸せにはなれない。
どんなに無理して何かを成し遂げても神経症者は「これぐらいしか」と感じて、「もっと」しなければと焦る。人間は誰もスーパーマンではない。調子の悪い時もある。意欲のわかない時もある。スランプの時もある。そんな時、もし「自分はスーパーマンであらねばならない」と思っていれば、焦る。
そしてこの憔悴感こそスランプを長引かせるのである。つまり焦りの心理があれば休んでいても休みにはならない。心理的にいつも「こんな事をしてはいられない」と焦るから、休みながらも心はリラックスしない。
人生にはただだらだらと時が過ぎて行くこともある。スランプで何をしても効率があがらないと言う時もある。
そうであるにもかかわらず、神経症者はスーパーマンであらねばと焦るから逆に人並の仕事もできなくなる。そしてだからこそ神経症者は個性がなくなるのである。普通の人には弱点と長所がある。そしてこの弱点と長所が一つに統合されたところに個性が生じる。
この個性を喪失した神経症は明日までにこの仕事をしなければ大変なことになると、焦る。しかしその仕事を明日までにしなくてもなんとかなるものなのである。十年後にはその仕事が明日までに出来ていても出来ていなくてもそれほど大きな違いはない。
予定通り仕事が捗らないことは、神経症者が思うほど大変なことになることはまずない。その仕事を失敗すれば周囲の人は自分を見捨てるというように、焦る人は思う。そこで「これをしなければ大変だ」と失敗を恐れるのである。
しかし失敗を恐れる人が思うように周囲の人はその人を責めたりはしない。案外失敗しても周囲の状況は変わらない。
むしろその人が勝手に変わったと思い込んで反応するから、実際に変わってしまうということはある。周囲の人はその人を迷惑とも思っていないのに勝手に迷惑がられていると思い込んで身を引くということが起きる。
そもそも「私はスーパーマンでなければならない」と思い込むこと自体がおかしいのである。自分は自分でしかないし、そして自分であれば周囲の人は、この今の状態を受け入れてくれるのである。「スーパーマンでなければ自分は受け入れられない」と思い込むことからしておかしいのである。
神経症者は仕事が捗らなくて焦っていると思うが、仕事のことで焦っているのではない。個性を失ったことで焦っているのである。ここが普通の人の焦りと、神経症者の焦りとの違いである。つまり神経症者は常に焦っている。
自分に対する過大な期待が焦慮感を呼び起こす。そして過大な期待にしがみつくのは親から心理的に離乳が出来ていないからである。自分への理想像に執着している人は、自分が大人になっても心理的に自立できずに、親にしがみついているのだと理解することである。自分の理想像に執着している人は立派なつもりかも知れないが、恥ずかしいことをしているのだと理解することである。