前の節で「自分は自分であるということのどうしようもない事実を喜んで受け入れることが出来るか出来ないかに、神経症と心理的に健康な人との分かれ目がある」と書いた。心理的に健康な人は「自分は自分である」と思っている。これが理屈ではなしに、感情として理解できた時に、心理的に健康になったということである。脳で言えば、左脳の論理だけではなく、右脳の感情的な部分をも含めて、そう納得した時に心理的に健康になったということであろう。
野原に虎がいる。自分はガラスの箱の中にいる。虎はガラスを突き破って来られない。でも虎がガラスの箱に襲いかかった時にビクッとして身を引く。この様な状況を今年の三月のABCニュースの脳の特集で映していた。
大脳新皮質の前頭連合野という部分で自分は安全と判断しても、脳の大脳辺縁系の扁桃核が「ビクッと」反応してしまう。いくら「安全だ」と理屈で分かっても、体は逃げる姿勢になる。安全だと理屈で理解しても、感情はやはり怖い。
つまり「自分は自分である」ということを大脳新皮質の部分で理解できているばかりではなく、大脳辺縁系でそう感じられる時に、その人は心理的に健康な人ということが出来る。
人間の幸福感には右脳と左脳では右脳が、大脳新皮質と大脳辺縁系では大脳辺縁系の果たす役割が大きい。だから人間は理屈では幸せになれないのである。偉そうな理屈を振り回しながら、欲求不満の塊の様な顔をしている人の何と多いことか。
心理的に健康な人は自分に出来ることで満足する。いや心理的に健康な人は自分の出来ることを「したい」と望む。神経症者は自分の出来ないことを「したい」と望む。
だから同じことが出来ても、神経症者は「このぐらい」しか出来ないと不満になり、心理的に健康な人は「このぐらいしか出来なくても仕方が無い」と満足している。あるいは「こんなにも出来た」と満足する。実は神経症者が思う「このぐらい」というのが物凄いことなのである。「このぐらい」を「このぐらいしか」と思うか、「こんなにも」と思うかはその人の価値基準で決まる。
つまり「このこと」を「このぐらいしか」と思う気持ちから、「こんなにも」と思う気持ちになった時が、自分が自分を受け入れた時である。こうして日々を満足して生きている人と、不満で生きている人とが別れる。
自分を受け入れてみると、受け入れないでいた時の事が、あらゆる点でひどく思える。つまり若い頃「自分は、この今の自分であってはならない」と自分に強制していたのがどんなことであるか理解できてくる。自分を受け入れていない時はそのことがどんなに酷いことかと言うことを感じてはいなかったが、自分を受け入れてみると、自分は、この今の自分であってはいけないということが実感として分かる。実感として分かってみると、自分に対して、この今の自分であってはならないという要求と言うは無茶苦茶なことだとよく分かる。