行動と動機3

第3節 行動と動機

岡山県で17歳の真面目な少年が母親を金属バットで殴り殺したらしいと言う報道がされている。よく親の手伝いをしていたという。「いまどき、手伝いなんかせんもんが多いのに、えらいな」(註:アエラ2000/7/3号)と近所の人は言っている。そして殆どの同級生は「無口で、おとなしい人」(註:アエラ2000/7/3号)と言っている。
 
彼は野球部だったという。そして「練習中、みなが嫌がって途中でやめるランニングを最後まで続けた」(註:アエラ2000/7/3号)。
 
17歳ばかりではなく人は外から行動だけを見ていても分からない。社会的に立派な行動をしているから動機が立派というわけではない。行動や言葉は同じでも、人によってその持つ意味は全く違うと言うことを私達は理解しなければならない。

今回は少し「行動と動機」を事件を離れてまとめて考えてみたい。たとえば人を「ほめる」時にどのくらい動機があるだろうか。
 
相手との関係を円滑にするためにほめる、いたわりの心でほめる、相手の活力を生み出すためにほめる。お世辞でほめる、相手に取り入るためにほめる、おだてて相手に何かをやらせるためにほめる、好かれようとしてほめる、ほめることでしか相手とかかわれないからほめる等々である。
 
つまりほめる人の中に愛情のある人もいれば、人を利用しようとするずるい人もいれば、おびえて生きている人もいる。だから誉められて喜ぶのは愚かなのである。この動機を間違えるのが神経症者である。言葉にとらわれて相手の動機を見ない。
 
人を守るために嘘をつく人もいれば、自分を守るために嘘をつく人もいる。成績表を返してもらっていても、「返してもらっていない」と嘘をつく子供が居る。母親に「良い子」と思ってもらいたいからである。それを「嘘をついた」と言うことだけに気を奪われて怒る母親が多い。「出来ないことを出来ないと言えない」のは、その人が寂しくて愛を求めているからである。

相手を騙すために嘘をつく人もいれば、自分を飾るために嘘をつく人もいれば、尊敬されたくて嘘をつく人もいれば、愛を求めて嘘をつく人もいる。
 
真面目な人が嘘をつくことも多い。執着性格の人は自分を守るために嘘をつく。愛情のある人は相手を守るために嘘をつくが、自分を守るために嘘をつくことはない。
 
チャランポランな人は人を守るために嘘をつくが、自分を守るためにあまり嘘をつかない。執着性格の人のように真面目な人とチャランポランな人とどちらがいいのだろう。
 
自分を守るための嘘と他人を守るための嘘とは同じだろうか。病人に死の病をを知らせない嘘もある。
 
大学生がレポートを見せてあげる、あるいは友人の宿題をしてあげる。親切な場合もあれば、嫌われるのが怖い、好かれたいから見せてあげる場合もある。不安からの迎合の場合もある。何かあげないと友達になれないという自己無価値感からの場合もある。お世辞の場合もある。これらは自分を守るための行為である。しかし行動だけをとれば親切である。
 
同じ走っていても、追いかけているのと、追われているのとでは全く違う。努力の動機を見ないで誉めるのはあまりにも表面的に人を見すぎている。17歳の犯罪事件の社会の評価がそうである。野球部で努力していた、テニス部で努力していたという。周囲の人は不安からの努力ということに気がつかないのだろう。
 
「良い子」であるのも、自分を守るために「良い子」でいる人もいれば、大好きなお母さんにほめてもらいたくて「良い子」である人もいる。後者の「良い子」が社会的問題を起こすことはない。17歳の犯罪事件で親の手伝いをしていたという報道がある。意識していたか、無意識だったかは別にして親が嫌いだったに違いない。

部屋のドアを開けている息子がいる。「親の期待に添う僕ですよ」と従順を表明している子供である場合もあるし、単にだらしがない子である場合もある。同情を求めて泣く人もいれば、優しさがあるから泣く人もいる。
 
無口でも、言うことがないから黙っている人と、何かを言うと相手と関係が出来てしまうから黙っている不機嫌な人と、言いたくても気まずくなるのが怖いから言わないでいる人といる。相手が嫌いなのに嫌いと思われたくないから黙っている人もいる。嫌いと言いたくても言えないから黙っている人もいる。
 
約束の一五分前に行く人がいる。メランコリー親和型的な真面目な人は時間を守らないと自分が気持ちが悪いから約束の時間を守る。相手を待たせてはいけないから約束の時間を守る人もいる。約束を守らない人と思われたくないから、約束の時間を守る人もいる。
 
フロムは勇敢な行動が、実は野心という動機に基づいており、人に賞賛されたいと言う渇望を満たすための時があると述べている。それなら勇敢な行動をとる人は、虚栄心の強い人と言ってもいい。
 
あるいは意識的、無意識的に、人生の価値を認めないで、自分自身を滅ぼしたいと思っていることが危険な行動に駆り立てることもあると言う。また単に想像力が欠けていて危険を知らずにしてしまうこともあると述べている。もちろん目標に対する純粋な献身と言うこともある。
(註:人間における自由、75頁、Erich From,Man for Himself, Fawcett World Library, Inc,1967 p.63)
 
社会生活には協調性が大切だという。その協調性も動機が問題である。不安から人に合わせるのと、愛情や思いやりから相手に合わせるのとでは全く違う。不安から人に合わせるというのは、自己不在である。心理的に言えば決して望ましいことではない。外から見ると協調であるが、心理的に言えば迎合である。

相手に合わせるのにも、愛情や思いやりから相手に合わせる人もいれば、自分を守るために迎合から相手に合わせる人もいる。
 
自分の意思で他人と円満にしようとする人は良くできた人であろうし、良い人と思ってもらいたくて円満にしようとする人は情緒的に未成熟な人であろう。保護を求めて相手と円満にしようとする人は、自分の意思でしていないから、相手に折れたぶんだけ憎しみが出る。
 
「いい人」を止めれば楽になると言ったような奇妙なタイトルの本が出版される。なぜこんな不思議なタイトルが出てくるのか?それは「いい人」になる動機を私たちが考えていないからである。
 
フロムは神経症の一症状(註:a symptom of neurosis, Erich From, The art of Loving, Harper & Publishers, Inc. p511、愛するということ、懸田克躬訳、紀伊国屋書店、84頁 1959/1/26)としての神経症的非利己主義(註:neurotic unselfishness、Erich From, The art of Loving, Harper & Publishers, Inc. p511、愛するということ、懸田克躬訳、紀伊国屋書店、1959/1/26)と言うことを言っている。この非利己主義には愛がない。神経症的非利己主義の人は常に見返りを求めている。神経症的非利己主義の人は立派に見えるけれども神経症者ということである。
 
フロムはこの神経症的非利己主義と関連した症状として、例えば抑鬱、疲労、働くことへの無能力、愛の関係の失敗というような症状にも悩んでいることをあげている。
 
ようするに非利己主義的な行動をする人の中にも心理的に健康な人もいれば、神経症者もいる。