日本のビジネスマンは真面目に働いているかぎり、会社の好意を当てに出来ると思っている。何のための真面目さか、他人から容認され、保護してもらうための真面目さである。だから日本のビジネスマンは真面目であるが、会社に不満なのである。会社から期待した保護が得られないときに不満になる。
それがさらに進んで神経症的愛情要求にまでなるビジネスマンもいる。つまりこんなに働いているのだから会社は私をもっと優遇すべきである、と思う。
他人から認められるための防衛的な性格としての真面目な人はいつも心配している。それは目的の好意が得られているかどうかが気にかかるからである。
ところが他人から注目を得るための、あるいは認められるための真面目さ、つまり真面目が手段になっている真面目さは、現実には目的の好意を得られないことが多いので、恨みと結び着きやすい。
ではなぜ勤勉であるにもかかわらず彼らは相手の好意を得ることに失敗し、そして恨みを持ちつつ、社会的に様々な形で挫折することが多いのか。
まず彼らの基本的な間違いは、社会人になってからも、相手の好意を得るために必要なのは、子供の頃と同じように勤勉・努力・真面目さと思っている。社会人になってから相手の好意を得るために必要なのは、そういうことよりも「優しさ」であるということに気がついていない。気がついていないのか、錯覚しているのかいずれにしろそこを間違えている。
例えばある出版社でベストセラーを企画編集していた勤勉で真面目な編集者である。周囲の好意を得られない。彼は認められたいと頑張りながらも認められない。そこで彼はその出版社を飛び出してしまった。
彼は社会人になっても、勤勉・努力・真面目で好意を得られると思っていた。しかしこれで好意を得られるとすればそれは相手が母親の時だけである。小さい子供が真面目に勉強すれば母親なら誉めてくれる。しかし社会人になってそれをしてもなかなかそれだけでは望むほどは評価されない。
この編集者も「皆さんのおかげです」と社内で言っていれば社内の好意を得られたのである。社長の所に行って「この会社に就職できて良かったです」と言っていれば社長の好意も得られたのである。
それを「オレはベストセラーを出している」と威張ってしまったから、勤勉・努力・真面目にもかかわらず、期待した好意を得られなかったのである。挫折する勤勉・努力・真面目な人は社会人になってからも「お母さん」が喜んでくれるようなことを誰でもが喜んでくれると思っている。