行動と動機2

第2節 真面目に頑張る

世間は犯罪を犯すと途端に「動機、動機」と騒ぐ。しかし日常生活の行動にも動機はあるし、社会的に望ましいと評価される行動にも動機はある。
 そして前回説明したように動機と行動は別である。人を判断するときに何よりも大切なのは行動ではなく動機を見る事である。分かりやすく言えば「人は心で判断しよう」と言うことである。
 
「真面目な人」の犯罪などが起きると、「あの人がそんなことをするなんて、信じられない」と言う人は、その真面目な人が人前で演技しているときの行動しか見ていないのである。劇場の舞台の上で演技をしている時の、その人しか見ていない。楽屋裏を見ていない。しかし動機をよく観察すると言うことは楽屋裏と舞台の上と両方を見ると言うことである。
 
人から好かれるために明るく振る舞っている防衛的性格としての明るい性格の人は、前から見るととても明るく明朗である。しかし後ろ姿が物凄く淋しい。そしてその淋しい後ろ姿が、その人の本当の姿なのである。

問題を起こすような「真面目な子供」は、その周囲の人の好意を得る為には、甘えたくても甘えてはならないということを小さい頃に学習している。「甘えたくても甘えてはならない」と言うことはマイナスの感情を出したいけれども出せないと言うことである。だから憎しみが心に蓄積されてくる。
 
問題を起こすような子供は、様々な恐怖から真面目にしていたが、それと矛盾する憎しみが蓄積されてバランスを取れなくなったと言うことである。
 
甘えたくても甘えられない、真面目な「良い子」とは、具体的にどういう子供だろうか?例えば、おつかいを頼まれる。しかし疲れている。その時に「ヤダ!」と言えない子と言うことである。もしおつかいに行くとしても「疲れているからイヤだ」と言ってから、それでも頼まれてしょうがないからおつかいに行くと言う子は甘えている。「ヤダ!」と言ってから行く方が心理的には楽である。
 
注目されたい、保護されたい、受け入れられたいなどと言うのは幼児的願望である。この幼児的願望が大人になっても満たされていないから、大人になっても注目されようとして真面目にしているのである。つまり問題を起こす子供は幼児的願望が満たされていない。甘えている子は「ヤダ!」と言っても保護され受け入れられるということを知っている。
 
つまり甘えられない子供は、「ヤダ!」と言ったら保護されないのではないかと、いつも心の底で恐れている。そして恐怖からした行動では、期待した好意を得られないことが多い。だからそうした子供は苦労する。
 
甘えるとは、親に感情でものが言えるということである。感情的に「イヤ」な時に、親に「イヤ」と言えるときに甘えているということである。

日本のビジネスマンは真面目に働いているかぎり、会社の好意を当てに出来ると思っている。何のための真面目さか、他人から容認され、保護してもらうための真面目さである。だから日本のビジネスマンは真面目であるが、会社に不満なのである。会社から期待した保護が得られないときに不満になる。
 
それがさらに進んで神経症的愛情要求にまでなるビジネスマンもいる。つまりこんなに働いているのだから会社は私をもっと優遇すべきである、と思う。
 
他人から認められるための防衛的な性格としての真面目な人はいつも心配している。それは目的の好意が得られているかどうかが気にかかるからである。
 
ところが他人から注目を得るための、あるいは認められるための真面目さ、つまり真面目が手段になっている真面目さは、現実には目的の好意を得られないことが多いので、恨みと結び着きやすい。
 
ではなぜ勤勉であるにもかかわらず彼らは相手の好意を得ることに失敗し、そして恨みを持ちつつ、社会的に様々な形で挫折することが多いのか。
 
まず彼らの基本的な間違いは、社会人になってからも、相手の好意を得るために必要なのは、子供の頃と同じように勤勉・努力・真面目さと思っている。社会人になってから相手の好意を得るために必要なのは、そういうことよりも「優しさ」であるということに気がついていない。気がついていないのか、錯覚しているのかいずれにしろそこを間違えている。
 
例えばある出版社でベストセラーを企画編集していた勤勉で真面目な編集者である。周囲の好意を得られない。彼は認められたいと頑張りながらも認められない。そこで彼はその出版社を飛び出してしまった。
 
彼は社会人になっても、勤勉・努力・真面目で好意を得られると思っていた。しかしこれで好意を得られるとすればそれは相手が母親の時だけである。小さい子供が真面目に勉強すれば母親なら誉めてくれる。しかし社会人になってそれをしてもなかなかそれだけでは望むほどは評価されない。
 
この編集者も「皆さんのおかげです」と社内で言っていれば社内の好意を得られたのである。社長の所に行って「この会社に就職できて良かったです」と言っていれば社長の好意も得られたのである。
 
それを「オレはベストセラーを出している」と威張ってしまったから、勤勉・努力・真面目にもかかわらず、期待した好意を得られなかったのである。挫折する勤勉・努力・真面目な人は社会人になってからも「お母さん」が喜んでくれるようなことを誰でもが喜んでくれると思っている。

また、落伍者になることを恐れて頑張る場合には、私達はついつい頑張り「すぎる」。「かたち」を整えることに頑張り過ぎて、心の内容が伴わない。つまり恐れが動機で頑張るときに、人は何かを「し過ぎる」のである。
 
頑張りすぎて燃え尽きる人は何となく生き方が下手なのである。頑張る割には努力の成果が上がらない。むしろ頑張ることで事態を悪化させている場合もある。彼らは「こんなに頑張っている」と思っている。でも皆から反発される。そして挫折していく。

ところで自分の利益のために頑張っている人と、人の幸せを願って頑張っている人とでは頑張りの動機が違う。そして挫折するのはたいてい自分の利益のために頑張っている人である。自分が出世したくて頑張っている人と、人を助けるために頑張っている人とでは頑張りの動機が違う。
 
鬱病者も努力している。でも自分のための努力である。友達のための努力でも、家族のための努力でもない。自己執着的努力である。
 
家族の幸せのために頑張っている人と、自分が有名になるために頑張っている人とでは、頑張りの動機が違う。それなのに人はそれを一緒にして「あの人は頑張っている」と言う。だから「頑張って働いている人」も挫折するのである。
 
そして人は、自分についても、動機を反省しないで「オレは頑張った」と言う。しかし自分が業績を上げるために頑張ったときに「オレは頑張った」と自慢することはないだろう。誰に頼まれたのでもないし、誰の幸せのためでもない。自分の利益のために頑張っただけである。
 
頑張っただけの利益を享受することはいいが、自慢することではない。怠けた人間はその利益を享受しないだけである。怠けた人間が利益を享受しようとするのもおかしいし、自分のために頑張った人が頑張ったと偉そうにするのもおかしい。