神経症的競走2

神経症的競走をする者は、当然のことながらなかなか敗北を認められない。人に勝つか負けるかが問題だからである。自分がどういう人生をおくるかが問題ではない。
 
例えば神経症的競走をする者は、仕事の選択をまちがえたときに間違えたと認めることが出来ない。自分は学者になったのは間違っていた、本当は自分は政治家になる方が適していたと心の底で思う。しかし自分は学者に適しているといい張る。
 
新聞記者になったのは間違えだと心の底で思ってもなぜ、それを認めないのか。競走している仲間を意識してである。仲間が間違えていないのに自分が間違えて不幸になったと認めるのが悔しいからである。そうしたことを考えると、神経症的競走をする人は、仲間に憎しみを持っているということでもある。
 
仕事の選択の間違いを認めることは、他人を意識しない人でも後悔にさいなまれながら悲痛な日々を送ることを意味する。しかし間違えたと認めることができる人だけがその後の人生で、意味を見つけられる仕事につける。

神経症的競走をする人は、仕事ばかりではない。結婚を間違えた時に間違えたと認めることが出来ない。例えば学生時代の仲間が幸せな結婚生活をしているのが悔しい。その人と昔から張り合っていた。それなのに自分は結婚相手を間違えて、不幸であると認めることは悔しい。いわゆる甘いレモンと言われるものである。レモンは本当は酸っぱい、でも酸っぱいと認めない。
 
しかし結婚を間違えた時に間違えたと認めることができる人だけがその後の人生で充実した愛の生活を送ることができる。
 
結婚が間違っていたと認めることは、人と張り合っていなくても深い絶望を生きることを意味する。しかし実際に間違った結婚生活をしながらも結婚なんてこんなものさと失敗を認めない人と違って新しい出発が出来る。もちろん人を意識しなくても心の底には絶望がこびり付いていることには変わりはないだろうが。

要するに神経症的競走をする人は、「敗者」につきものの感情を抑圧するということである。結果的には心は葛藤に苦しみ、不安にさいなまれることになる。いつまでも成長できないまま人を愛することができず、いつも不機嫌に苦しむことになる。
 
神経症的競走をする人は、負けたと思ったときに、イソップ物語のキツネのように、欲しい葡萄を取れなくて、[あの葡萄は酸っぱい]と言う解釈で他人の優位に立とうとする。
 
だから人生で感動を失う。その解釈は一瞬の苦しみを助けてくれる。しかし空しさはすぐに出る。後で普通の人以上に落ち込む。普通の人以上に不安になる。
 
神経症的競走をする人が、自分の心の葛藤を解釈で解決しようとしても、それは所詮無理である。自分は何故そんなに身構えて生きなければならないのか?心の底を見つめることの方が、解釈よりもはるかに重要である。
 
実は仕事にしろ、結婚にしろ、それらの間違いは一つの人生の体験であって、決して彼は「敗者」ではない。彼が勝手に自分をそう決めつけているだけである。

次にカレン・ホルナイが言う神経症的競走の第二の特徴である。
 
神経症的競走心を持つものは人よりも成功したい、多くのことを成就したいと思うばかりではなく、自分のしたことがユニークで例外的でないと気にいらない。
絵を描けば自分はレンブラントで、小説を書けば自分はシェイクスピアでなければ気が済まない。水泳ではオリンピックに出たいし、劇では有名女優と競演したい。

こうして神経症的競走をする神経症者はスーパー・マンを目指す。そして自分は人々の幸せに役に立っているという実感を求める。社会に貢献できる喜びを求めない。
成功はその人に自信を与えない。だから次々により大きな成功を求めさせるのである。女性であれば、良き妻、有能な役員、優しい母親を演じようとする。
こういう人は常に話題の中心にいたいのである。皆に注目されていたい。そのように話題の中心にいなければ不安だということである。中心である場合には
見捨てられる不安がない。自分がその場の中心でなければ、見捨てられないかと不安になる。そこで何時も周囲の人に自分を認めさせよう、認めさせようとする。
 
そして無理に自分の重要性を認めさせようとするから、かえって皆に嫌われる。それが不安を増大させ、余計に自分のしたことの価値を誇張する。自分の
したことの価値を誇張するのは自分が望むように相手が自分を認めてくれないからである。
 
このようにして、悪循環に陥っていく。しかし逆に認められると気が引けて自己卑下を始める。元々自分の価値に自信がないから、認めれるとかえってそれを
否定しようとしたりする。

カレン・ホルナイが言う神経症的競走の第三の特徴は競走の中には復讐心が隠されていることである。
 
従って自分が成功することよりも他人が負けることが重要になる。自分が幸せになるよりも、他人が不幸せになることが重要になる。
 
今の日本では他人の不幸を売物にする読み物がとにかく売れる。ある時私のゼミの卒業生の中で加藤ゼミマスコミOB会というのが出来た時がある。その会に呼ばれて、私が今のジャーナリズムを批判したときに、教え子の、ある週刊誌の記者が「先生、不幸は売れるんですよ」と言ったのにショックを受けた。批判精神と言う名の妬み。人の不幸に心から同情できない私達。他人のあら捜しをして、その不幸に何かしらほっとしたものを感じる私達。だからこそその週刊誌は売れている。
 
それにしても今の日本人のスキャンダルに対する異常な関心の強さはどう説明すればいいのだろうか。全ての否定的意見に賛成する人もいる。この連載のはじめの方で書いたように今の日本の若者の異常な不満の高さはどこに原因があるのだろう。

神経症的競走をする人は、私だけが美しくなければ気に入らない。私だけが成功しなければ気に入らない。私だけが有能でなければ気に入らない。自分以外の人が美しい事が気に入らない。それは自分以外の人に対する敵意である。
 
自分以外の人が注目を浴びると気に入らない。自分以外の人が美しい事が気に入らない。
 
自分が試験に受かっても他人が同じ試験に受かっては気に入らない。自分が気に入った服を着ていても、自分以外の人がおなじ洋服を着ていると価値が下がる気がする。自分の満足が他人との関係で決まる。「あなただけが持っている」等という言葉に騙されて高いお金を出す。
 
神経症的競走をする人は、仲間を応援した方が自分に得になってもそれが出来ない。ルーズ・ルーズ・ゲームを演じる。アメリカでは日本に比べれば他人が競走相手になるまでは相手を誉める。競走相手になったときに態度を変える。

神経症的競走をする人にも、もちろん自分の成功は大切である。しかし彼らは成功することは怖い。妬まれるからであり、その能力に自信がないからである。そうなると残された道は他人の足を引っ張ることしかない。要するに他人の足を引っ張ることが仕事になる。
 
神経症的競走をする人が失敗を恐れると同時に、成功を恐れるのはなぜか。それは彼らが自分が生きる土壌をきずいていなくて、早く花を咲かそうとするからである。花は咲いたけど、茎がひょろひょろしているようなものである。だから自信がない。実際の自分が成功に値しないことを知っている。
 
世の中には気がついたら成功していると言う人がいる。そういう人はもちろん成功を恐れない。復讐心を動機として努力して「俺は成功した」と思った時がカレン・ホルナイのいう成功の恐怖の時である。
 
健康な人は「オレは健康だー」とは言わない。人が「元気ですね」と言う。そして気づいてみて、「あー、そうか、オレは健康だ」と思うだけである。
 
不健康な人がお金をかけて健康になろうとする。健康飲料を沢山のんだから健康であると思う。とすると、お金がなければ不安になる。そして自分が無理して健康になっているのに、人が簡単に健康になればおもしろくない。