子供が死んで行くときに「死ぬほど苦しい」と親に言えない親であった。

子供が自殺する前にどのようなサインを出しても自分に囚われている私達親はそれに気がつかない。なぜなら私達親は自分に囚われていて、自分の自尊心に影響する子供の成績には関心があるが、子供自身の幸福には関心がない。
 
だから子供が学校で苛められていてもそれが分からない。子供に関心がある親なら子供が自殺するほど学校で苛められていれば気がつくのが普通であろう。自分に囚われている私達親は子供が自殺するほど苦しんでいてもそれに気がつかない。
 
自分にばかり気をとられているから子供が学校でどんな苛めにあっていても気がつかない。「どうも子供の様子がおかしい、何か眼が落ち着かない、キョロキョロしている」と気がつかない。「この頃好きなあのお菓子を食べていない、何かあるのではないか」と気がつかない。「あの顔にはなにかある、あんなにせき込んでいることは今までにない」と気がつかない。それよりも自分のことが気になる。子供の体の調子より、自分の近所の評判のほうが気になる。
 
そして子供が自殺すれば学校が悪いという言う責任転嫁になる。子供が死ぬ前にすがることのできないような親であったことを誰も取り上げないで学校の責任を追及する。私達親にとってこれほど楽なことはない。
 
新聞の報道によれば「苛めからの自殺事件」のあとで文部省の初等中等教育局長は次のように述べたという。全国の都道府県と指定都市の教育長を集めて「いじめ問題」を話し合ったときのことである。
 
「お父さんやお母さんを悲しませてはいけない。自分一人で生きているのではない」。
 
子供が死んで行くときに「死ぬほど苦しい」と親に言えない親であったことを反省しろと言うのが当り前ではないか。人を殺しておいて殺す人間の苦しみを理解しろといっている様なものである。殺された人間に、殺す人間の悩みを理解しろといっているようなものである。
 
全国の親に向かって「子供が苦しいときに苦しいと言えない親になっては行けない」と親に向かって叫ばなければならないときに、このようなことを言うとは開いた口がふさがらない。